このような状況下、全日空においても高度経済成長に伴う旅客数増加に対応すべく、札幌で冬季オリンピックが行われる1972年を目途に「次期大型旅客機」として大型ワイドボディ機の導入を考えており、1969年に日本航空から派遣され社長へ就任した大庭哲夫を中心に選定作業が進められていた。候補となった3機のうち、L-1011 トライスターは上記のようにエンジンの開発が遅れたために納入が1974年頃になってしまうことから選択肢から外れた。また、ボーイング747SRは全日空の企業規模(当時)からすると大きすぎると判断され[2]、最終的にマクドネル・ダグラスDC-10が候補に残り、1970年5月に三井物産(日本における販売代理店)を通じ、3機を仮発注した。 しかし同月、発注を推進していた大庭社長が「M資金関連の詐欺事件に巻き込まれた」という趣旨の怪文書を流された挙句、株主総会の直前に不可解な形で社長の座を追われることとなり、元運輸次官の若狭得治が大庭の後釜に就いた。
その後の1971年2月に、運輸大臣橋本登美三郎が「日本の航空会社によるエアバス(大型ワイドボディ機を指す)の導入は1974年以降にすることが望ましい」と発言したことを受け、同年3月31日に運輸省から同様の趣旨の行政指導が行われたため、導入自体が延期された。しかし1972年初頭には、全日空がマクドネル・ダグラスDC-10を正式発注することが確実になり、実際に引き渡し予定のマクドネル・ダグラスDC-10がロングビーチの工場で完成している状態であった
不可解なトライスター発注
しかしその後、若狭新社長によって急遽L-1011 トライスターを再度「次期大型旅客機」の選択肢に乗せることが提案され、若狭社長を中心に全日空社内で検討が進められた結果、仮発注を行っていたマクドネル・ダグラスDC-10の正式発注が土壇場で覆され、10月30日に若狭社長自らの手によって、同社がL-1011トライスターを発注したことが発表された。
なお、この発注に先立つ1972年9月1日にハワイのホノルルで行なわれた日米首脳会談において、カリフォルニア州選出で地元のバーバンクにロッキード社の本拠地を抱えるニクソン大統領より、田中首相に対して全日空へのL-1011 トライスター機の購入を働きかけたという噂が上がった。なおこの際に田中首相は小佐野が所有するサーフライダー・ホテルに宿泊している。
その上、同月に東京で行われた日英首脳会談でも、イギリスのエドワード・ヒース首相が田中首相に対して、イギリスのロールス・ロイス社製ジェットエンジンを搭載したL-1011 トライスター機の購入を強力に働きかけていたことが、2006年に公開されたイギリス政府の機密文書で明らかになった(なお、ライバルのマクドネル・ダグラスDC-10にはロールス・ロイス社製のジェットエンジンは搭載できない)。
その後の1974年1月には、橋本運輸大臣の発言に合わせたかのようなタイミングで初号機が全日空に納入され、同年2月には東京国際空港に到着し間もなく全日空はL-1011 トライスターの運航を開始したが、この様な不可解な形での全日空によるL-1011 トライスターの再検討及び発注はスキャンダル視されることはなかった。なお田中首相は月刊誌「文藝春秋」同年11月号掲載の立花隆による「田中角栄研究?その金脈と人脈」や児玉隆也による「淋しき越山会の女王―もう一つの田中角栄論」にて金権体質が指摘されたことが反響を呼び、同年12月9日には首相を辞職することとなる。
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